
■高橋尚子27位も引退を否定
「人々は、偉大な英雄を恋焦がれる。しかし、一旦手に入れると
次にはそれを博物館へ押し込めたがる」という言葉がある。
博物館とはつまり、伝説として片隅に追いやるという意味だ。
王貞治が好例だ。
714本塁打・800号達成の際は国民的騒動となるも、その後はなぜか“一区切りついた感”が漂う。
年間40本塁打を下回ると、世間から無言の“引退”の圧力がかかった。現役引退の年に打ったホームランが30本。今の時代、現役裁判年に30本の本塁打を放った選手がいるだろうか。
大相撲の力士もそう。
世間は、横綱になるまでの破竹の勢いのときには熱心に肩入れする。期待のホープが出世街道を驀進しているときには好意的だ。だが、ゆるぎない地位を獲得し安定路線を歩むと、次第に風当たりが厳しくなる。
高橋尚子の現在がそういう位置にいる気がする。
どんな偉大なる能力や実績がある者でも、いや活躍をすればするほど新鮮味は褪せる。ヒーローとなり露出を繰返すほど顔は覚えられるが飽きられもする。その実力者の力が下降線をたどった途端、
世間からは無意識的に“引退”を催促される。
25歳でした「調整ミス」からくる単なる失敗を、35歳で行うと“そろそろ引退か”とされてしまう。
ヒーローに憧れる心境も、恋に焦がれる心境も基本的には変わりない。ある人を、勝手に見初めて、勝手に惚れて、勝手に恋焦がれる。一緒にいすぎると飽きてきて、相手の粗が目に入り、勝手に怒って勝手に離れる。
結局視ているのは自分だけ。自分の欠乏状態を相手に刷り合わせて視ているだけなのかもしれない。
その実、当の自分の実体すらも解らず、コロコロ揺れて変化していく。結局あるような何もなく、何もないようで、何かある。コロコロ動くからココロという。
・・・すべての人間がそう出来ているわけなのだから、まあ、それでいいのだろうな。
世間が視ているのは、ヒーローや恋する人そのものではなく、“自分の中にある欠乏”なのかもしれない。人間は、自分のコンプレックスを埋めるための投資は、決して惜しまない。巷に溢れる“劣等感をついた商売”が儲かるのはそれ故。
欠乏を誰かによって補い、お腹一杯になってしまったら、ヒーローが活躍しようがすまいが、もうイラナイのだ。
しかしそれゆえ、新しい商品が生まれ、新しい恋が芽生え、新しい英雄が生まれる。
時代は変わり、世界は回る。輪舞のごとく、輪廻のごとく。
一方、世間の逆風にさらされたヒーローは、己の力を磨きさらにパワーアップして立ち向かおうともがき苦しむ。順風逆風関係なく、ひたすら目標に向かって突き進む。彼らにはそれしか道がない。その姿は、悲しいくあるけど美しい。
すべてのヒーローが歩んだ浮沈の道をQちゃんもまた歩んでいる。
「起死回生の戦いで、Qちゃんが超特Qで、挑むつもりが、結果はチョロQ。
だけれども、窮々しているQちゃん姿もなかなか、キュートだぜ」。
とりあえず、語呂合わせのひねくれたオマージュを送っておくとする。

■日本ハム:中田翔、開幕2軍決定
金のなる木を持ち上げた後は突き落とす、そうすりゃ二度オイシイというわけか・・・。
世の中には、早咲きの人と遅咲きの人がいる。
そして長続きする人と続かない人がいる。
早咲きの人は、社会的貢献と地位名声に加えて若さを持つので華やかな人生に見える。
遅咲きの人は、世間を良く知った上での社会的貢献なので、シッカリした人生観を作れる。。
長持ちする人は、そのたゆまぬ研鑽で実績を積み上げ、続かなかった人は、一瞬であるゆえの輝きがむしろ詩的イメージを残したりもする。
早熟長持ちタイプが実績面では最も優れているのは当然だ。彼らは着実に記録を積みあげ、名選手の誉れを確実にし殿堂入りしたりする。若いときから半世紀の間、権力を握り続けたフィデロ・カストロのようにさまざまな実績を後世に残す。
早咲き早世にも味がある。一瞬であるがゆえに鮮やかに闇を切り裂く流れ星のような鮮明な記憶を人々に残すのだ。彼らがもし、天才的な技能に加えて端正な容貌を持てば詩的効果は倍増、新撰組の沖田総司的存在となるだろう。
高卒ルーキーでいきなり16勝をあげた巨人の堀内恒夫。牙を向く列強団をなぎ倒しエースとして君臨、200勝を達成した。引退時の言葉が「才能だけで野球をやった」。“早咲き長持ちの絢爛たる花”といえる。
社会人からプロに入団後いきなり16勝をあげた日ハムの木田勇。主たる賞を総なめにし、シーズンオフには「青春アイ・トライ・マイ・ベスト」という歌まで吹き込む大型ルーキーだった。しかしその後は伸びず、結局それが「ベスト・オブ・ヒズ・ライフ」。まさしく“早咲き早世の花”だ。
プロ入団7年目にしてうようやくレギュラークラスになるも、中日、オリックスと渡り歩き、楽天を新天地として、40歳にして二冠王に輝いた山崎武司は、遅咲き長命タイプだろう。
151キロの驚異的な伸びのある速球デビューし、高橋由伸に「今までで一番すごいストレート」と言わしめたした中日の中里篤史。しかしその後、度重なるアクシデントで勇姿を見るのは稀に・・・。線香花火のような“一瞬のあだ花”となるのか・・・。
「記録より記憶」という言葉もある。だけど記憶だけでは飯は食えない。詩ばかり歌っていたのでは生きてはいけない。醜く、おどろおどろしく、ネトネトした嫉妬と憎悪と計算高さも、世間で生きるにはついてまわる。だけど時には、―いやだからそれゆえ、人はポエムを必要とする。
大部分が茶色と緑色の樹木のなかに、ごく稀に鮮やかな赤や黄色の花が咲くから胸ときめかすのだ。早咲き遅咲き、長命短命、さまざまな花に惹かれるのだ。
中田翔。これから一体、どんな花となるのだろうか。
前評判とは裏腹に、現時点では活躍どろこか、一軍入りも厳しい状態。
「ホームラン10本行きたいッす」
強気もさすばに陰潜め、今頃彼こう呟いているに違いない。
「そんな言葉はもう、ナカッタことにシヨウ・・・っす」。

■内藤、引き分けで2度目の防衛に成功
イージス艦が防衛省の体たらくを披露したあと、内藤大助が素晴らしい防衛を披露してくれた。
素人目で見ても一目でわかる変則スタイル。
解説者すら、「内藤のボクシングは内藤にしかできない」と実況中に語るほどだ。
抜群に煌めくボクシングセンスを見せるわけでなく、
見た目が美しいボクシングではない。
二つ名を有す一撃必殺のバンチを持つでもなく、
思わず抱きしめてくなる甘いルックスの選手でもない。
理路整然と話す能弁家でもない。
あるのは、冷徹な戦略、運動神経とスタミナ、朴訥さと人のよさ、忍耐と継続。
これらの超地味カードをかき集め、掛け合わせてプラスにしたところに
“内藤スタイル”の花が咲く。
決して派手ではないが、設定した目標からブレず、地道な継続を延々と続け、
高みに到達したチャンプといえる。
自然界では、強いもの、速いものには、独自の美しさが備わる。
加えて、チャンプにまで上り詰めた選手たちには、各自独自のスタイルを宿す。
ボクシングは勝ち負けの試合であると同時に、美しさとスタイルの見せ合いでもあるのだ。
テレビで器用なタレントがそこそこのダンスを披露しても、宝塚の男役スターの踊りの足元にも及ばないのはスタイルがないからだ。イケメンの5匹や6匹(5羽や6羽でもいい)が集まっても、生半可な容貌だけでは「宝塚」という様式美の前に膝まづくより他ない。
スタイル。
スタイルを見つけた結果、人は安心感を得る。「自分はこれでいい」と思え、他人の動向に気をとられなくなるからだ。そして、それが風格に通じていくのに違いない。
ぜザンヌはいった。「ただ一つのリンゴを描いただけで、パリ中を驚かしてやりたい」と。
作家は己の文体を築き上げるのに血道を上げ、営業マンは自分のツボを見つけるために靴をすり減らし、女は目を皿にして自分に似合う服を探している。昨日も今日も明日も・・・。
「自分はボクシングのセンスはないが、運動神経には自信がある」
「チャンピオンになってもしばらくは、フルタイムの労働後にボクシングをした。だからスタミナには自信がある」
「奥さんに最初に出合い近づいたとき、彼氏がいると断られたが、めげずに何度も何度もトライした。」
・ ・・これらの内藤の言葉は、彼のスタイル構築の歴史でもあるのだ。
楽しい話もある。
「若い頃オカマ願望があった。女装をしたらあまりにも似合わなかったの愕然とした」。
減量中との戦いでもあるボクサー。その最中は、消化が良い麺類のうどん等しか摂れないのかも。
このチャンプは、オカマ願望の持ち主だけに、こう言うはずだ。
「う、どんだけー?」

■ロス疑惑再燃、三浦氏逮捕
80年代文化がブームである。
CMでやラジオなどではしきりに80年代の音楽が流れ、ジャニーズではマッチが復活している。
このころに青春期を迎えた人々は40代に入り、最大の所得層となり、その子らも青春期を迎える時期。当然親の時代の文化の影響も色濃く、メディアは親子二代でのマーケット取り込みを狙っている。
そんな時勢にまさか、この人までリバイバルするとは思わなかった。
三浦和義。
80年代のピカレスク・ヒーロー。長身の二枚目、弁才と堪能な英語力、豊富な海外経験と商才を持つ。そして法律に熟知したワル。この絵に描いたようなカッコイイ男をオンナがこれを放っておくわけがなく、彼に絡んだ女たちは殆どが皆モデル顔負けの美人とくる。そこに、ロスサゼルスが舞台の保険金目当ての殺人疑惑。ロス疑惑は、都会派サスペンスドラマ顔負けのスキャンダルとなった。
事件の真相は別として、この疑惑の主人公がもっと一般的だったらどうだろう。酔っ払うとネクタイを頭に巻き、宴席ではオヤジギャグの連発で周囲に冷気を放ち、お絞りで顔どころか脇まで拭き、帰りはタコ焼き片手の千鳥足といった冴えないオッサンだったら、ここまでは盛り上がらないはずだ。
しかし。「最初の5分、コイツと話したときには頭のイイ男だと感心する。5時間話すと変人だと思うようになる」。三浦和義と同時期に服役した者の言葉(うろ覚えですが)が示すとおり、基本は変人なのだろう。
自分が子供のころ。街中にはまだいろんな奇人がいた。
自分の家の窓を開けて、一日中何もせず外を眺めているスポーツ刈り&ランニング姿のオヤジ。
授業中にオーディオで軍艦マーチをかけて、大声で戦争礼賛をした教師。
作業用ズボンのすそにストッキングをかぶせて履き、そこらをうろつきまわる“ストッキング爺さん”
この手の人たちはきっと、天から何らかの役割をこなしているのだ。ただそれをフツーの人間では理解しくい内容なだけで・・。経済的貢献優先の時代になるとまっさきに切り捨てられる人々でもある。
人は皆、多かれ少なかれ奇人なワケであり、その発露を我慢しながら協調している。
現在はいかなる人間も資本拡張に参加しなくてはならず、その才能がない人間には非常に済みにくい世の中となっている。その強制がエスカレートしていることが、自殺増加や鬱、イジメの核となっているに違いない。
「平和な時代の舵取りをするのは凡人。だが危機の時代が来ると、変人が舵取りをする」という言葉がある。総理大臣でばなく、生徒会長としてならば、小泉純一郎よりも安倍晋三のほうがきっと人気があったはずだ。だけど首相レベルになると、どこか狂気の要素がないと勤まらないのかもしれない。
ほぼ単身で、警察権力と対峙し、マスコミと立ち向かい、世間を平気で敵に回す。というかむしろ目立つことを喜ぶタイプの三浦。並みの人間なら1週間でノイローゼになるに違いないのに。
ことの真相、善悪好悪は別として、ある意味では傑出した部類に入る人物ともいえる。
3度の危険な航海に出、アジアを見つけたつもりでアメリカ大陸にた到達したコロンブス。
子供のころに読んだ神話を信じて、事業で成功した金を注いで、勘違いにまみれつつもトロイア遺跡発見を達成したシュリーマン。
三浦和義は、上記の2人とスケールの違いこそあれ類型なのだろう。己の変人性を世間の逆風にめげず押し通してゆける系譜なのだろう。
惜しむらくはその方向性。
彼のタイプは、方向性が海に向かえばコロンブスになり、砂漠に向かえばシュリーマンになっていただろう。雪山に向かえば、三浦雄一郎になっていたにはずだ。
サッカーに向かえば・・・、当然三浦和良になっていたに違いない。

■野茂、右ひじ手術からの完全復活なるか
招待選手からメジャー復帰を目指すロイヤルズの野茂英雄投手は29日、パドレスとのオープン戦で3年ぶりのメジャー登板.最速87マイル(約140キロ)ながら2回を3安打1四球自責点0に抑えた。2三振を奪う上場の出来だった。
ときどき座禅の本を読む。
そこには、「我々の日常における思考のほとんどは“妄想”である」とされている。
「座禅はそれを減らす効果があり、妄想が取り払われた先には安定した心の状態になる」とある。
ある物事に集中しているつもりでも、実は作業より妄想が勝り、エネルギーをそっちに奪われてしまうようなことは日常よくある。
実際、目の前の作業をしているつもりでも、その結果や周囲の目ばかり気になり、目の前の作業に集中できないこともよくある。あまり上手くいっていない恋人の存在が気になり、一日机に向かって仕事をしても、全然捗っていないなんてことも一例だ。
それらはすべて、取り組み中のこととは違った場所にある“妄想”気を奪われている状態に陥っていることになる。
・・・というよりむしろ、「我々の人生のほとんどが、妄想に振り回されっぱなし」といえるかもしれない。ぼんやりと仕事をしつつ半分は妄想にまみれ、勝手に喜び勝手に心配し、突然無関係な昔の失敗を思い出し恥かしがったりしながら、一人で疲れている。本質なことにエネルギーを使っているのか、妄想でくたびれ果てているのか、区別が付かないといってもいいくらい。少なくとも、自分などはそういう中途半端な人生を送っているようだ。
野茂英雄の生き様に、秀でた点が二つある。
一つは開拓精神。もう一つは、集中力である。
彼は“野球”(ベースボールではない)のヴァンガード(先駆者)であり、伝承者でもある。
これほどの成功者ならば、第二の人生の生活不安などかけらもないはず。
それでも途方もない努力とリスクを背負って野球を続けている。ただ“野球を追及したい”、その一心に全身全霊を傾けている。逆に、すぐれたスポーツ選手のなかには、まだまだ活躍できるのに、別の可能性に新たに踏み込んでいく、中田英寿のようなタイプもいる。
どちらがいいとは言い切れない。
しかし、彼は現在までし続けている仕事と、自己実現がピタリと一致し、長年そこからのブレがない。
生活のために仕事をし、「労働なし生きているなら、とっととやめたい」と思っている人が、世の中の多数だろう。野茂のオーラには眩い栄光と同時に襟を正す厳粛性を帯びて見える。
人生における体感時間は、逆ねずみ算式に減ってゆく。気力体力満々の前途洋々の若者が、気が付くと、虻蜂取らずの中年になってしまう可能性もある。
21世紀になり、情報技術に革命が起こり、すべての流行のサイクルが加速。
誠意を込めて、基本を築き、一つのことを徹底するという生きかたが、一層難しくなっている。
だがしかし、何の業界でも、どんな分野でも、いかなる技術者においても、それを貫いている尊敬すべき人たちがいることを忘れてはならない。
野茂のプレイには、単なるベテランプレーヤーというばかりではなく、そういったメッセージが含まれているような気がする。貫いた者にしか出せないオーラを放っているというか。
--こういった考えも文章も、所詮妄想の産物だろう。
ともあれ、いよいよ、野球のシーズン。
モウソウだけに、モウソンな季節かと呟いてみるわけで。
うーん・・・
野茂のフォークとご同様、こちらのブログも“落ち”の出来映えが気がかりなんです。



