
■オグシオ、北京に散る
アイドル並の美貌のコンビが、髪を振り乱してひたむきに何かに打ち込む。
その姿の美しさは、もはや完璧であろう。
しかし。試合も「完璧」・・・に負けてしまった。
昨今は、メディア先行のスポーツアイドルが花盛り。
亀田興毅、大毅
ハンカチ王子。
石川遼
浅尾美和
・・・これはいずれも人気優先。
オグシオもそんな中の一つだった、といえた。
しかし、現在、世界ランキング6位。
人気優先状態から、よくここまで実力をつけてきたと思う。
スラリとした肢体に、超ミニワンピのユニフォーム。
端正な小顔の二人は、コートで踊る紺色の百合さながらだった。
一方の対戦相手はといえば。
ダボダボのユニフォームにガッチリした体躯。
伸びかけたスポーツ刈りようなヘアスタイル。
田舎から遊びに来た二人の磯野カツオに見えてしまった。
人気先行型選手。
その反対型選手は、“強くても人気がない選手”ということになる。
いつの時代も、どのジャンルにも、この二つの対峙がある。
その違いは、“華”だ。華という才能。
これはもって生まれたもの。研究・努力・練習ではどうにもならない。
実力ならば、5の力を6か7に伸ばせる可能性もある。突然、バケる可能性もある。
しかし、華は一目瞭然。一瞬で解る類の才能であり、ほぼ生得的のもの。
・・・中国の選手だけではない。
今回い大金星を獲った伏兵・マエスエたちも、華という才を持ち合わせておらず、「オグシオを非常に意識し、猛練習を重ねていた」という。
中国選手団も当然、オグシオの美貌と人気は承知していたハズ。
加えて相手は日本人。他国の他のペアよりも相当な意識をしていたのではないか。
今回の中国選手の、地元の追い風を受けた爆発的な力は、そういった華への反発心の要素も大かもしれない。
アイドルというのは、一種の特権階級だ。
「かわいいから、ちょっとダメでも許しちゃうという」一種の免罪符がある。
しかしそれは、若さという期限付き。
アイドルが実力のないままでいると、若さを失うにつれ淘汰されていく。
事実、アイドル・タレントの多くがその道を歩む。
もし、長期の活躍したいのなら、
王子(姫)のうちにうちに実力をつけ、王者(女王)にならなくてはならない。
「若さの華」が咲き、次に「真の華」が咲く。数百年前に、世阿弥が風姿花伝書でも述べている。しかしそれは誰にでもやってくるものではなく、むしろ非常に厳しい道のり。
小椋&潮田コンビの「オグシオ」を追って、今後、次世代選手の追随が増えるはず。
味沢&塩原コンビの「アジシオ」とか、
原田&黒沢コンビで「ハラグロ」とか
赤木&橋本コンビで「アカッパジ」とか
・・・誰だか知らんが、そんなこんなが次々と登場するに違いない。
オグシオは今後はたして、“真性の華”を咲かせることができるのか。
・・・それはさておき、ここまで頑張ったお二方。
とりあえず、「アリガト」と伝えたい。
あ、これだと、「有田と加藤のコンビ」になるのか。

■TV局発の神風特攻隊たち
“世界のナベアツ”を最初見たとき、「随分変な髪型をした高杢禎彦(元チェッカーズ、古ゥ)だなあ」と思ってしまった。あの髪型は、強力な圧力鍋を使ってセットしたからナベアツというのかな、とも思ってしまった。
彼の「3の倍数ネタ」自体は、古典的なギャグである。昔の「モンティ・パイソン」にもこの手のコントがあった。舞台設定は医師と患者。「先生、ボクは“ラ”の音を話そうとすると、どうしてもシャックリが出てしまんです」という設定で、最後は医者にも感染して二人でシャックリしまくるというモノだったとおもう(記憶は曖昧ですが)。
“世界のナベアツ”は、エド・はるみと同じ“遅咲き兼業芸人”と分類できよう。エドの場合は兼業ではないが、今後は女優回帰も可能なキャリアがある。ナベアツは、過去に漫才コンビを組んでおり、近年放送作家の仕事がメイン。この手の芸は短期間で飽きられるのは目に見えている。一発屋に終わっても、知名度を獲得しておけば、のちに放送作家に戻っても有利だという考えもあるに違いない。現代のテレビ芸人において、“兼業芸人”が一番賢い道に見える。
閑話休題。
最近、関東エリアでのラジオでの巨人戦放送スタイルが変わっている。土日の場合は、巨人がデーゲーム放送、阪神戦がナイター放送となることが多い。巨人戦をゴールデンで流しても、阪神戦には勝てないと放送局側も踏んでいるのか。
「野球人気が低迷しているというが、巨人戦の人気が低迷しているだけ」と最近まで思っていた。だが様相が異ってきた。広告費の低下や若者層のテレビ離れが顕著となり、「テレビ人気が地盤沈下を起しているようだ。雨後の筍のごとき送り込まれる“瞬間芸人の連射”は、局側の焦りの対応なのか。この瞬間芸人群、第二次世界大戦背水の陣の際、日本海軍が送り込んだ神風特攻隊のようにさえ見えてしまうから寂しい。
文化事業へのスポンサードというのは、基本的には資本家が布施をするつもりで行わなくてはならない。損得勘定抜きで文化を提供するところに品格が漂うわけだ。日本のテレビにも、80年代あたりまでには風格の名残はあった。ゆえに大スター、名番組が登場した。しかしスポンサー側にも余裕がなくなり、利潤追求が強くなるにつれそれは弱まり、ネットという21世紀メディアが出てきた途端に今の急展開にいたっている。
とういわけで、さすがのナベツネも最近露出が少ない。
この際思い切って、心機一転、ナベアツに巨人を仕切らせたらどうだろう。
彼なら、「3の倍数と3がつく数字のときには、アホになるデー」みたいな日を作って、ファンサービスにいそしんでくれるのではないか。「ボールスリー」をカウントするときには、審判はアホな声を出す、とか。3塁の塁審はアホの坂田がやるとか。3点目のホームインの際は、鼻水を垂らして白鳥の湖を踊らなくてはならない、とか。そんな視聴者獲得戦略を打ち出すに違いない。
この采配が成功したらナベアツもビックになるだろうな。雑誌のインタビューとかにもドンドン出ちゃうに違いない。
その際、どんな雑誌に出るとよいか。
やはり、お勧めするのは、「ビック・オモロー」あたりかな。
それでは皆さん、
・・・オモロー!

■「グ〜」で大ブレイク エド・はるみ
役者と乞食は一度やったら辞められないという言葉がある。
・・・長島一茂がある本で語っていた。
「野球選手ではダメだったが、芸能人として成功できた。しかし、観客5万人の球場でホームランを打ったときの歓声には、何物も及ばない。今でもその夢を見る」と。
・・・歓声と拍手。“舞台欲”というのは、それほどの魔力を持っているのだろう。
エドはるみ。90年代には舞台で活動する、“出川哲郎をクンづけで呼ぶ女優”だった。PCインストラクターとマナー講師を経て、2000年になってからお笑いに転じて舞台へ。現在に至る。
正装に身を包んだ、整った風貌。
明快な話し振り。
美しい姿勢とマナー。
その一方、
お世辞にも上手いとはいえない奇妙なダンス
古臭いBGM(Nack の “My Sharona”)
韻を踏んだ自虐的なギャグ
・・・これらを40歳を過ぎた女性が熱演するという芸風だ。
最後に“good”と前向きに受け入れているところがミソでもある。
おそらく。このネタ(というより本人)が、
20代前半で美人だったらウケなかったかもしれない。
プロポーションがバツグンで、ダンスが上手くても嫌味になるに違いない。
酒井順子の「負け犬」という言葉が流行り、コウダクミが、「羊水が腐る」発言で
バッシングを受ける難しい時代。
絶妙なバランス感覚が、この微妙な芸を生んだのに違いない。
その一方、ある女子アナの悲劇もある。良家の生まれで名門大学を出、超一流放送局に入って、いくら食べても太らなくてモデル顔負けの体質の美人アナウンサー。そこまで出来すぎだと、フリーランスになってあまり売れなくなったのは、ある意味で仕方のなかったことかもしれない。
すべてに勝つことができない。世の中というのは、無意識のうちにバランス感覚をとるワケだし。
パーフェクトなものはつまらなく、ちょっと壊れたところに味が出るってこともある。
エドはるみの流行は、そんな“バランス感覚”の集大成ともいえよう。
多くのメディアが並存する現在。その中でテレビの特化している機能は、IAS(※)という伝達効果だ。挨拶するとか、名前だけ知らせる機能。動画機能も包括したインターネットに、テレビジョンが勝てる要素は、もはやそこしか残っていない。
テツandトモ、ゲッツ板谷、ヒロシ、小島よしお・・・。延々と続く一発芸の流行が、インターネットの登場と同時に登場しているところが、それを証明してるのではいないか。
そしておそらく、「IAS対応ギャグだけでは、芸人として長くは持たない」ことは、おそらく芸人のほうでも了承済みなのであろう。
しかし。
他の一発芸人違って、エドはるみには、女優としてのキャリアがある。
「(一度名を売れば)飽きられても女優でイケる」。そこら辺のバランス感覚もキチンととっているに違いない。
今後は、この手の
「本来何かの実力を持ち、ブレイクのキッカケを掴むだけ」というタイプの、“本業告知型芸人”が増えるのではないか。IAS対応型芸人というか・・。
小島が、「そんなの関係ねえ」と開き直り、エドは、「Good」と、破れかぶれな前向きさ。
人類滅亡を100%否定できない現代の漠然とした空気感。男はヤケクソ、女は開き直りで対処するといった男女差を表してるいるようで、面白い。
エドはるみ。
エドは、“エド・サリバン”からとったという。
てっきり、エド山口の妹で、都はるみの親戚あたりかなと思ったのだが・・。
注)※IAS⇒「インパクトだけ 与えて サヨナラ(Impact_dake Ataete Sayonara)”の略。⇒当然、アホ筆者の造語 笑」」

■サザンオールスターズ、無期限活動休止
不機嫌になった、というかガッカリした人は沢山いるだろう。
ライトファン歴20数年、シングル数枚、アルバム数枚買っただけ、コンサートにすらいったこともない私でも、このニュースは少なからずのショックを受けた。
サザンオールスターズが無期限解散となった。
活動30周年を迎えた国民的バンドの活動休止が公式発表された同日朝から、民放各局で大々的に取り上げられた。これは、日本のミュージシャンのニュースとしては極めて異例。大々的な報道や特集が組まれ、大きな反響を呼んでいる。
97年ころ、売り上げが一時低迷しライトファンが離れていった時期がある。最大のヒット曲「TUNAMI」は、その状態からの起死回生のバカ売れを記録。桑田は語る。「(意識して)売れるものを作った」。
2003年はデビュー25周年。直前まで一時休養していた活動を再開、大規模なスタジアムツアーで復活をアピールした。が、一部のファンからは「復活以降のシングルは売れ線ばかり」という声も上がっていたらしい。
プロのクリエーターのすべてが持つ苦しみ。「売れなくてはならない」「自分自身のメッセージを伝えたい」この間の葛藤だ。桑田クラスになると、その相克もメガトン級なのではないか。これに疲れ果てたのではないか。
広告批評という雑誌がある。今年創刊30周年を向かえ、それと同時に休刊となった。
創刊者の天野祐吉氏曰く、
「マスメディアの広告が“万能”の時代は終わった」
「大量生産、大量消費、大量流通。この“20世紀の巨大な歯車”が失速した。」
「21世紀は、“物を買わないことが豊かな時代”である。」
大量流通とマスメディアは強いつながりを持つ。そして、マスメディアとポップミュージックの連携も必要不可欠。マスメディアを鋭く批評した「広告批評」誌と不世出のポップバンドの活動が、ほぼ同じ期間にシンクロしていたことが面白い。
サブプライム以降、アメリカが求心力を激減させ、ものすごいスピードで人類はスローな時代に移ろうとしている。大企業が経済成長を維持するために打った悪行が次々に露見。中国が、遅れてきた経済主義をゴリ押ししようとしているところに四川の大地震。
・・・地球が、何かを告げようとしているような気がする。
さしずめ、地球が今、我々に音楽をリクエストするとしたら、「スローなブギにしてくれ」あたりだろうか。(←古すぎて知らない人ゴメン)
1989年を思い出す。
昭和天皇、手塚治虫、石原裕次郎、美空ひばりが同時期に世を去った。昭和の終焉と同時にと戦後文化の巨星が消えた。時代を象徴する存在は、不思議なほどに同じ時期に姿を消す。今年2008年、阿久悠が死に、サザンが解散した。広告批評が休刊となる。アザラシのタマちゃんもどこかへ行った。(←これは関係なし)残る半年、このシンクロはまだまだ続くような気がしてならない。
桑田は以前の著作で、「唄がダメになったら、夫婦でコメディアンになりたい」と書いていた。
事実、デビュー前後のころ、彼の卓越したお笑いセンスに目をつけた志村けんは、桑田を本気でドリフターズに誘ったことがあったらしい。最近の例では、コンサートで小島よしおネタを連呼して話題になり、小島のブレイクのキッカケも作った。
今後の桑田は、ひょっとしてお笑いの世界に進出するかもしれない。
小島と組んで、「オッパッピーの★Gスポット」なんて曲を作って、セッションしてほしいな。
ともあれ、30年間ご苦労様でした。

■福田首相、「権力の乱用」と民主へ怒りおさまらず
福田首相は9日の党首討論で「ひとつひとつに結論が遅い」と小沢一郎氏にブチ切れた。翌日のメルマガでも、「参議院の第1党という権力の乱用」と批判を続けた。
・・とはいうものの、この人の存在感の薄さは何か。
安倍晋三という先発投手がもろくも崩れ去ったための暫定的リリーフ当番、とはいえ、この存在感のなさはスゴイ。
そもそも、“存在感”とは何なのだろうか。露出の度数に比例している場合もあるが、それだけとも言い切れないはずだ。
その人が何が好きで何をやりたく、何に集中してるのか。このことが鮮明になっているかどうか、が大きな問題だろう。当然、風当たりや反発の度合い強い。しかし、安逸よりも主張を優先している人に漂うのが存在感なのだ。
福田は二代目首相。安倍の父も首相目前までいった人。ともにエリートで坊ちゃん風情ただようお方。
変人狂人の度合いは極めて少なく、極めて正統的な道を歩んできた人にみえる。
小泉も三代目の政治家だが、長年政治の世界でも変わり者で傍流を歩いてきた。群れをなすくらいなら、一人でオペラ観賞でもしたほうがマシという一匹狼の変わり者。田中真紀子からは“変人”と評された。
いかにその人が、自分の存在を自分で受け止めているか。人と異なった部分を受け入れているか。自分の孤独を捕らえているかにもよる。自分自身の光と影、長所と欠点をひっくるめたものを受け入れていないと立体感はでないわけで・・・。存在感は、その立体感があって初めて成立する種類の要素ではないか。
“民衆の無意識の力”というのもバカにできない。
本当の危機が来た際には、よくも悪くも小泉のような存在感のある政治家を出現させるものだ。
存在感のない人が総理大臣になっているということは、現在の政治状況が、その程度のものでよい、無意識はそう捕らえているのか・・・。
企業の創業者は強烈なワンマン社長が多く成功する。その下に仕える者は、創業者のいうことを何でも聴くイエスマンが成功する。どちらがよくてどちらが悪いということではない。魅力や長所なんてのは所詮、相対的なもの。成功だとか、才能というのも、相対的偶発的な部分が多く、大きな才能の影には大きな欠点もあるワケだし‥。
福田氏の“存在感のなさ”自体が、ポスト小泉のこの時期の、“首相になれた理由”なのかもしれない。
小泉内閣での官房長官、首相に直言する女房役としての存在感を持った。定評のある実務能力から、「影の外務大臣」などと囁かれた。「秘密主義長官、影の外務大臣、影の防衛庁長官。いろいろ言われるがしょせん影」と自らを語り、官房長官の辞任の際、「風のごとく来りて、風のごとく去ると」と続けた。
彼の場合、“影と風”がキーワードなのか。さらに「存在感がないことが存在感」。
まるで禅問答をやっている忍者のようだぜ。
田中角栄、竹下登、金丸信、細川護煕、羽田孜、渡辺美智雄・・・。手を組んだ者は皆壊れる“壊し屋”
小沢一郎と、“禅問答の忍者”の戦いはいかに。
まるで時代劇の名作“仕置き人シリーズ”を見ているみたいだぜ。
やはり。
二人の調停役をできるのは、藤田まことしかないのかな。

■楽天・好調開幕スタート
楽天が好調だ。開幕4連敗の後、7連勝した快進撃、一時は初の単独首位にも立った。首位争いをしてもおかしくないチームに変貌した。就任3年目。田尾監督時代からみると、短期での急発展を遂げた野村監督の力量はスゴイ。チーム状況も、“万年最下位”という名の濃霧が散り、好天が見えてきた。
稀代の名伯楽のモットーは適材適所であるという。個々の人材の長所を見抜き、各人が最も輝く場所を提供する。
人は誰でも長所を持つ。
しかし、長所短所というのは、個人個人の主観で変わる。いや、人とういうのはただ存在しているだけ。周囲が勝手に自分たちの状況や都合で価値を変えているに過ぎない。
赤い花がどんなに美しくても、周囲にウンザリするほど赤い花が咲いていれば目立たない。
花ぶりが大したものでなくとも、薄汚れた部屋にあれば異彩を放つ。
世の中のものはすべて相対である。絶対的な真もなければ、善も美もありえない。整理整頓、組み合わせ、強弱のバランスで如何様にもなる。指揮官の醍醐味はそこにある。
「醜いアヒルの子」という童話がある。
これは単に、「変わり者だった子供が成長するにつて美貌を獲得し人生が変わった」というだけの話ではないと思う。「まったく同じ人間でも、今までと違った場所、違った仕事、違った人間関係に移った途端に輝きだす場合がある」ということの暗示を含んでいるのではないか。
バレエの熊川哲也は、幼少の頃から親にバレエを英才教育で叩き込まれたわけではないらしい。いくつかスポーツを渡り歩き、バレエで初めて「これだ」と閃いたという。
漫才の「やすしきよし」の横山やすし。それまで何人もコンビを組んでいたが、すべて彼の凶暴ぶりで解散。やすきよでブレイクするまでは、長続きしない単なる問題児だった。
これらはまさしく化学反応だ。醜いアヒルの子が、「誰でもある日突然、劇的に変化する」可能性があることを示した好例。野村克也は、人為的に選手を開花させる場所を与えることの達人なのだ。
しかし。
安楽な状態のなかでは、問題意識も萎み、化学反応のチャンスにも気づかない場合が多い。
保護状態では、アンテナがどんどんさび付いてくるからだ。豊富な資金があるわけでもなく、超目玉選手が最初から存在しない球団だからこそ、野村の腕の見せどころがある。
その一方、恵まれているが故にアンテナがを錆付かせている球団もある。
歴史や伝統、プライドがまるで皮下脂肪のようにベットリと張り付き、むしろ“智慧を発揮する余地”を与えてもらえない球団だ。欲しいと思う前に玩具を買い与えられる金持ちの子供みたいで、それはそれで可愛そうでもある。
「こういう野球しとれば将来性ある」
前向きな発言が増えたノムさんの采配に、多く視線が注がれ楽しみだ。
え?どこからの視線かって?
楽天だけに、“ネット”越しでしょうか。

■高橋尚子27位も引退を否定
「人々は、偉大な英雄を恋焦がれる。しかし、一旦手に入れると
次にはそれを博物館へ押し込めたがる」という言葉がある。
博物館とはつまり、伝説として片隅に追いやるという意味だ。
王貞治が好例だ。
714本塁打・800号達成の際は国民的騒動となるも、その後はなぜか“一区切りついた感”が漂う。
年間40本塁打を下回ると、世間から無言の“引退”の圧力がかかった。現役引退の年に打ったホームランが30本。今の時代、現役裁判年に30本の本塁打を放った選手がいるだろうか。
大相撲の力士もそう。
世間は、横綱になるまでの破竹の勢いのときには熱心に肩入れする。期待のホープが出世街道を驀進しているときには好意的だ。だが、ゆるぎない地位を獲得し安定路線を歩むと、次第に風当たりが厳しくなる。
高橋尚子の現在がそういう位置にいる気がする。
どんな偉大なる能力や実績がある者でも、いや活躍をすればするほど新鮮味は褪せる。ヒーローとなり露出を繰返すほど顔は覚えられるが飽きられもする。その実力者の力が下降線をたどった途端、
世間からは無意識的に“引退”を催促される。
25歳でした「調整ミス」からくる単なる失敗を、35歳で行うと“そろそろ引退か”とされてしまう。
ヒーローに憧れる心境も、恋に焦がれる心境も基本的には変わりない。ある人を、勝手に見初めて、勝手に惚れて、勝手に恋焦がれる。一緒にいすぎると飽きてきて、相手の粗が目に入り、勝手に怒って勝手に離れる。
結局視ているのは自分だけ。自分の欠乏状態を相手に刷り合わせて視ているだけなのかもしれない。
その実、当の自分の実体すらも解らず、コロコロ揺れて変化していく。結局あるような何もなく、何もないようで、何かある。コロコロ動くからココロという。
・・・すべての人間がそう出来ているわけなのだから、まあ、それでいいのだろうな。
世間が視ているのは、ヒーローや恋する人そのものではなく、“自分の中にある欠乏”なのかもしれない。人間は、自分のコンプレックスを埋めるための投資は、決して惜しまない。巷に溢れる“劣等感をついた商売”が儲かるのはそれ故。
欠乏を誰かによって補い、お腹一杯になってしまったら、ヒーローが活躍しようがすまいが、もうイラナイのだ。
しかしそれゆえ、新しい商品が生まれ、新しい恋が芽生え、新しい英雄が生まれる。
時代は変わり、世界は回る。輪舞のごとく、輪廻のごとく。
一方、世間の逆風にさらされたヒーローは、己の力を磨きさらにパワーアップして立ち向かおうともがき苦しむ。順風逆風関係なく、ひたすら目標に向かって突き進む。彼らにはそれしか道がない。その姿は、悲しいくあるけど美しい。
すべてのヒーローが歩んだ浮沈の道をQちゃんもまた歩んでいる。
「起死回生の戦いで、Qちゃんが超特Qで、挑むつもりが、結果はチョロQ。
だけれども、窮々しているQちゃん姿もなかなか、キュートだぜ」。
とりあえず、語呂合わせのひねくれたオマージュを送っておくとする。



